’バイローンジー’バイロー・プラサード Bhairav Prasad ‘Bhairon Ji’

1844~1940(バナーラス流派) 

1944年、現在のビハール州の州都パトナーでバイロー・プラサード(BhairavPrasad)(別名バイローンジー・マハーラージ、BhaironJiMaharaj)は生まれました。 

バイローンジーの父は同州のアーラーという町の人でしたが、音楽家という職業柄、より大きな都市であるパトナーにも演奏の仕事の為よく滞在しており、 バイローンジーはそこで生まれたのでした。そしてバイローン・ジーの母カダムバリーデーヴィーはバナーラスの伝説的なサーランギー奏者ビハーリージー・ミスラ(BihariJiMisra)の妹でしたので、 名演奏家である家族とすばらしい音楽に囲まれた家庭にバイローンジーは生まれます。 

しかしバイローンジーが2歳になる前に父が亡くなり、バイローンジーと母は、叔父であり母の兄であるビハーリージーのもとに身を寄せることになりました。 当時から音楽はじめ芸術の中心地であったバナーラス市に住み、すでに名サーランギー奏者として名をなしていたビハーリー・ジーには自身の子がいなかったので、 甥であるバイローンジーをまるで我が子のようにかわいがりました。 
仕事場だけでなくいろいろな場所にまだ幼いバイローンジーを連れて行ったり、一緒に遊んだり、楽しく暮らしていました。  

さて、音楽家の血を受け継ぎ、生まれた時から音楽に囲まれて育ったバイローン・ジーは当然のように自然に音楽に接していきます。 特別な教育をうける前に、子供が親の真似をして言葉を覚えるようにバイローン・ジーも音楽を覚えました。 
ビハーリー・ジーは普段からバイローン・ジーが何気なく歌ってる歌からその音楽的才能を感じていたので、 ある頃からカーシー・ナレーシュ(バナーラス一帯を治めていた王)の宮廷の音楽監督をつとめていたパヤーグジーのところへバイローン・ジーを連れて足繁く通うようになります。 

当時インドでは、パヤーグジーのような宮廷付きの音楽監督のまわりには常に一流の音楽家たちが集まっていました。 ある町にすばらしい腕をもった演奏家がいるとの情報が入ると、宮廷付きの音楽監督達はその演奏家についての情報を集め、さらには実際に出向いたりして話をし、 条件が折り合えば宮廷付きの演奏家として迎えるのでした。 
そしてもちろんカーシー・ナレーシュ(バナーラスのマハーラージャ)の宮廷にもかなりの数の名演奏家がパヤーグジーらのリクルートによって全インドから集められていました。 

バナーラス・バージ(バナーラス流派)の創始者ラーム・サハーイの高弟バガト・マハーラージ(BhagatMaharaj)もその頃、 全国から集められていた凄腕タブラ奏者の中でバナーラス流タブラの代表的演奏者としてカーシー・ナレーシュの宮廷に出入りを許されていました。 

バイローンジーは宮廷の中でもタブラ、特にバガト・マハーラージのタブラ演奏がとても好きだったので、 まだ遊び半分ながらタブラを習いに彼の家に頻繁に通うようになりました。それを見ていた叔父のビハーリージーはバガト・マハーラージに自分の息子同然である バイローン・ジーを内弟子にするように頼み、バガト・ジーは彼を弟子として受け入れる儀式をとりおこなった後、正式に弟子としてタブラの指導を始めました。 

当時の音楽教育は現在のように金銭的にも時間的にも管理されたものではありませんでした。弟子は師の家に内弟子として住み込み、師に仕え、普段は主に雑用ばかりさせられていました。 そして師の時間に余裕があるときにだけ教えを受ける事ができました。時には自分自身の練習をする時間すら全く取れないときもありました。 

バイローンジーとグル(師匠)バガト・マハラージの関係もその様なものでしたが、バイローンジーは自分を犠牲にしてまでバガト・マハラージによく仕え、 夜になって師が寝た後に寝る間を惜しんでタブラの練習に励みました。 

数年間の過酷な練習と、師への献身的な奉仕、それに対しての師の愛情のある指導によって、バイローンジーはその当時他に並ぶ者のないほどの量のチーズを持つタブラ奏者になりました。 

彼の名前はガット、とくにガット・ファラド(小さいサイズのガットの一種)のスペシャリストとして全インドに知れ渡り、 演奏のスタイルは純粋なバナーラス・バージ、すなわちとても力強く男性的でした。 また当時でもタブラ奏者にとって、チーズ(タブラで演奏するパターンとそのバリエーション、及びコンポジション)の豊富さと演奏技術の高さは一番重要なことでしたが、 バイローン・ジーには三、四千種ものカイダ、ガット、レーラ、トゥクラなどのレパートリーがあり、その全てをいつでも正確に叩くことが出来ました。 

 タブラの指導者としてのバイローン・ジーは、生涯400人もの弟子たちを一人前のタブラ奏者として育て上げました。 その中でも優れた5人の弟子は注目を集め、当時のインド音楽界で中心的な位置にありました。 

モールヴィー・ラーム・ミスラ(Maulvi Ram Misra) 
マハヴィール・バット(Mahavir Bhat) 
マハデーヴジー・ミスラ(MahadevJi Misra) 
ナーゲーシュワル・プラサード(Nageshwar Prasad) 
そして、 
アノーケー・ラール(Anokhe Lal) 
の5人です。 
モールヴィー・ラームは叔父のビハーリー・ジーが後にもうけた子でバイローン・ジーにとってはいとこにあたり、一番弟子でした。 

 またこの時代のバイローンジー以外のバナーラス・バージのタブラプレーヤーでは、バルデーオ・サハーイ(Baldeo Sahay)、 ベイジュー・ミスラ(Baiju Misra)、ゴークル・ジー(Gokul Ji)、ヴィシュワナート・サハーイ(Vishwanath Sahay)、そしてジャガンナート・ジー(Jagannath Ji)らが活躍しており、 この頃からバナーラス・バージのタブラの中でも演奏上の特徴の差が生まれてきます(現在のバナーラス流派の中では4,5種類のスタイルがある)。 

 バイローンジーはタブラのほかにドゥルパド、キヤールなどの声楽も良くしました。彼は持ち前の記憶力で数百種のラーグを、 そしてそれぞれのラーグのターン、トールなどを熟知していました。またバガバット・ギーターを読むことをこよなく愛し、臨終の時もギーターを手から離しませんでした。 彼には3人の息子と2人の娘がいましたが全員、父バイローンジーより先に亡くなっています。 

 1940年9月21日、バイローンジーことバイロー・プラサード・ミスラは96歳で亡くなりました。 

 おわり (敬称略)