’チューリヤー・ワーレー’イマーム・バクシュ ‘Chudiya Wale’ Imam Baksh

  (1800頃?~1850頃?)(ファッルカーバード流派) 

 チューリヤー・ワーレー・イマーム・バクシュ。大変長い名前ですが、彼の本名はイマーム・バクシュ、残りは彼の愛称です。 
 彼の師でありファッルカーバード流派の創始者である、’ハージー・ウスタード’ヴィラーヤト・アリーの場合もそうでしたがインド人は本名同様に、もしくは本名以上に愛称を用います。 現在でも、一人のインド人はヒンドゥー、イスラームに関わらずほとんど二つ以上の名前でよばれています。 
一つは愛称で家族によってつけられどんなに大きくなっても家族の中ではその名前で呼ばれます。次が本名でそれは生まれた時に両親によって、または両親がよりどころにしている宗教の指導者、 寺の僧らの姓名判断などによってつけられます。そのほかにも学校での名前、属する社会の中での名前、などなど一人のインド人にはいくつもの名前があります。 
ですので、たとえば犯罪を犯して新聞に名前が載るときなど、本名と一緒に通称もかかれることがあります。 

 チューリヤー・ワーレーの場合は、彼がいつも腕につけていた女物の腕輪(チューリヤー)にちなんでいます。 チューリヤー・ワーレーの生没年などの記録は一切わかっていませんが、彼がよく伴奏をしたとされるインド中部の藩王国グワーリヤルの 声楽家兄弟ハッスー・カーンとバッドゥー・カーンの両氏がチューリヤー・ワーレーと同世代と考えると1850年頃から1875年頃までの間に生まれ、活躍したと思われます。 

 チューリヤー・ワーレーは元々はパカーワージの演奏家でしたが、ある日’ハージー・ウスタード’ ヴィラーヤト・アリーのタブラ演奏を耳にしてとても感銘を受け、彼の熱烈なファンになりました。 
 ちなみに、現在ではパカーワージの奏法はタブラ演奏の中にかなり入ってきており、タブラでパカーワージのボールを演奏する事も少なくないですが、 タブラの歴史の最初期の段階ではタブラとパカーワージはかなり厳然と区別されていたようです。 
タブラの最古の流派とされるデリー流派はパカーワージと最も離れた所にある流派といわれていますが、それはパカーワージとの差別化を意識した結果だといえます。 すなわちデリー流派の初期の演奏家たちは、 パカーワージのもつオープンで硬質な音との対極、クローズで柔らか味のある音をタブラの音、持ち味としてとらえ、その演奏法を確立していったのだと考えられています。 

 ドー・ウングリー・カ・バージ(二本指の流派)と呼ばれるデリー流派のタブラ奏法は分派であるアジラーラー流派以外のタブラとは奏法上また音楽的にも決定的な違いがあります。 その名の通り二本指でたたかれるデリー流派のタブラは、音質が柔らかく音のクラリティーは高いのですが、音量の面ではどうしても限界がありました。 当時はまだスピーカーやアンプ、マイクなどの音響機器がなかったため、主に宮廷で行われていたパフォーマンスの場ではどうしても生音の音量の豊かさが必要とされていました。 
 とくに宮廷舞踊カッタクの伴奏のようにー 

①歌やサロードなど同時に演奏する伴奏者が多い中で、 
②ダンサーのグングルー(ダンサーが足につける鈴がたくさんついた脚輪。ダンサーはグングルーを、まるで一つの別の楽器であるかのように踏み鳴らながら踊る) 
と対等の音量が必要とされるのです。 

 そこでデリー流派の後継者であったモードゥー・カーン(バナーラス流派創始者ラーム・サハーイの師)と、 ミャーン・バクシュ(ラクナウ流派の創始者で、ファッルカーバード流派の始祖ハージー・ウスタードの師)両氏はラクナウ移住後、それぞれの既存のデリー流派のタブラ奏法に改良を加えました。 
 そして次の世代であるラーム・サハーイ(バナーラス流派)はタブラにパカーワージの奏法を再び取り入れる事によって、 また’ハージー・ウスタード’ ヴィラーヤト・アリー(ファッルカーバード流派)は師ミャーン・バクシュから受け継いだラクナウ流派よりはわずかにソフトでカタックの影響から離れた独自のスタイルをうちたてていきました。 

 さてファッルカーバード流派の祖ハージー・ウスタードのタブラの腕前に惚れこんでしまった「レディース腕輪さん」ことチューリヤー・ワーレーですが、 いきなり’ハージー・ウスタード’ ヴィラーヤト・アリーの弟子にはなれなかったようです。 

 チューリヤー・ワーレーは最初、ハージー・ウスタードの家の水タバコ係りになってハージーに接近しました。 ハージーの家の水タバコのパイプにタバコの葉を詰めたり、パイプを掃除したりがチューリヤー・ワーレーの仕事でした。 

 昔のインドの伝統的なグル・シシュヤ・パランパラー(師弟関係)では、師は弟子にいきなりタブラを教えるような事はありえませんでした。 
最初のうちは師の世話ばかりで、タブラの授業はおろかタブラにさわることすら許されず、ただひたすら師につかえるのです。 
その期間、弟子は師のそばにいることによって音楽家たちの社会の仕組み、しきたり、人間関係など演奏以外のことを自然と学び、 師は弟子がこれから歩むであろう厳しい芸の道に耐えるだけの根気があるかどうかを見極めるのです。 

 このテスト期間とでも呼ぶべき時期は長いと数年にも及ぶため、雑用に追われる日々に耐え切れずタブラの道をあきらめにげだす者も少なくありませんでした。 しかしチューリヤー・ワーレーは逃げ出さず、ただじっと師ハージー・ウスタードのそばで彼の全てを観察していました。 

 ハージー・ウスタードの家に来るようになって十二年(!!)の月日が経ちました。ある日、彼はハージー・ウスタードの部屋に呼び出され、こうきかれました。 

 「おい、お前ひょっとして音楽が好きなのか?」 
 「は、はい。」 
 「もしかしてタブラを習いたいのか?」 
 「実は、、、そうなんです。」 

 その日までチューリヤー・ワ-レ-は、自分がハージー・ウスタードのタブラが好きだなどと話したことはなかったのです。 十二年間ただ黙ってハージー・ウスタードの水パイプにタバコをつめ、いつもハージー・ウスタードのそばにいる事が出来るだけでよかったのです。 

 こうしてハージー・ウスタードの正式な弟子になったチューリヤー・ワーレーですが、実は彼のタブラの師匠はハージー・ウスタードだけではありませんでした。 むしろもう一人の師のほうがチューリヤーに熱心にタブラを教え育て上げました。 そのもう一人の師とはハージー・ウスタードの妻、すなわちラクナウ流派の創始者ミャーン・バクシュの娘モーティー・ビーヴィーでした。 

 彼女は幼い頃よりデリー流派、ラクナウ流派のコンポジションを父より覚えこまされていました。 その数は数千にものぼったといわれ、実際ハージー・ウスタードが彼女と結婚する際の結婚持参金も、 金銭とは別に彼女の記憶していた(お金では決して買う事の出来ないタブラ演奏者たちの財産である)コンポジションのボールで支払われたといわれています。 
 この恐るべき記憶力とタブラに関する知識を持った女師匠に、チューリヤー・ワーレーは大変かわいがられました。 ハージー・ウスタードがあらゆる用事で忙しいときでも、チューリヤー・ワ-レ-だけは女師匠に呼ばれ特別に稽古をつけてもらっていました。 
 きっとこの女師匠、モーティー・ビーヴィーだけは、チューリヤーのただタバコを詰めるだけの十二年間を見て何かを感じ取ったのでしょう。 そうでなくてもハージー・ウスタードに嫁ぐ前に、自分の父、ミャーン・バクシュのところに通う生徒だけでも数千人ものタブラ奏者を見てきているのです。 チューリヤーの隠れた才能を見抜いていたのかもしれません。 

 インドでは師匠は弟子の手首などにヒモ(ガンダー)を巻きつけ、弟子にとってそのヒモはお守りのような役目を果たします。 
たいていそれは弟子と認められた日に行われるプージャー(儀式)やドゥーアーで巻かれるものなのですが、チューリヤーの腕には別のものが与えられていました。 ハージー・ウスタードが与えるはずの普通の木綿のヒモではなく、ハージー・ウスタードの妻が与えた、それまで彼女自身が使っていたチューリー(ガラス等で出来た色のついた腕輪。 男性がそれをする事はまずありえない。)だったのです。 

 この奇妙とも言える女物の腕輪と、彼の比類のない演奏テクニックで、チューリヤー・ワーレーの名前は全インドに知れ渡りました。 そしてファルッカーバード流派を伝える師としても大変有能だったそうですが、残念ながら彼の弟子たちについての詳しい事はよくわかっていません。 
 師・ハージー・ウスタードにはファルッカーバード流派を継承した息子がいたので、チューリヤーはカリーファー(正当な後継者)ではなかったのです。 
 しかしそれでも「チューリヤー・ワーレー」イマーム・バクシュの名前は、一タブラ奏者として、また師を慕う良き弟子の鏡としてインドでいまでも語り継がれています。   

 おわり (敬称略)