ラーム・サハーイ Ram Sahay

1780頃?~1826頃?(バナーラス流派)

 ラーム・サハーイはタブラの六大流派のひとつバナーラス流派(バナーラス・バージ、バナーラス・ガラナ)の始祖とされているタブラ奏者で、 だいたい1780年ごろに生まれたのではないかと考えられています。 
 生まれたのは北インドのバナーラス(ヴァラナシ)で、家は代々続く音楽家の家系でしたのでラームはまだ2歳の頃から、 彼のおじのもっていたタブラを誰に習うわけでもなく一人で勝手に叩いていました。 そしてそのように勝手に叩いてるうちにいつのまにかタブラの最も初歩のフレーズ DHA DHA TE TE, DHA DHA TI NA が叩けるようになってしまいました。さらにティーン・タール(インド古典音楽で最もポピュラーなリズムサイクル。16拍子)のボールもいつのまにか覚えてしまいました。 ラームの家族は、まだ幼い彼が驚くほどタブラに夢中になっていて、どんどん上達していくのを見て大変驚きました。 

 5歳になった時、彼はタブラ奏者である叔父の正式な弟子になり、それからはきちんとしたタブラ教育をうけることになりました。 そして9才になった時にはラームのタブラは驚くほど上達していましたが、それでも毎日たくさんの時間を練習に費やしていましたので、 家の外の通りからラームのタブラの音が聞こえてくると、通りがかった人々はその音を聴いてさぞかし名のあるタブラ演奏家が叩いているのかと勘違いしたほどでした。 
 ラームはその時にはもうバナーラスで有名なタブラ奏者となっていたのでした。 

 ある日ラームは、当時インド芸術の中心地のひとつであったラクナウでのコンサートでタブラを演奏していました。 そこには偶然ラクナウ・ガラナ(ラクナウ流派)のカリーファーの一人であり、一流のタブラ奏者だったモードゥー・カーン(Modhu Khan)が来ていて、彼の演奏を聴いて大変興味を示しました。 そしてラームの父に、彼にはどれだけタブラの才能があるかを説明し説得し、ついには自分の弟子にしてしまいました。 その為ラクナウでは、「イスラム教徒」であるモードゥーが、バナーラスから来た一人の「ヒンドゥー教徒」のしかもブラフマンの少年を弟子にとりタブラを教えている、とちょっとした騒ぎにもなりました。 親子の関係と同じくらい重い師弟関係を、他宗教の者と結ぶというのは一般的なことではないからです。 
また、一説によると、当時のモードゥー・カーンは知識はありながらもすでに年老いていたためにタブラが満足に叩けず、 それを理由にラクナウのタブラ演奏家コミュニティーに馬鹿にされたことに腹をたて、ラクナウのタブラ演奏家コミュニティーからも弟子を全くとっていなかったようです。 

 さてモードゥーの教えのもとラクナウで数年がたちました。ある日、モードゥーはある大事な用事のために自分の妻の実家に行かなければなりませんでした。 もう既に出発してしまい誰も座ってない空のモードゥーの席をみて、ラームは嘆きました。そして我慢できずに悲しみのあまりその場で泣き出してしまいました。 それを見たモードゥーの妻はラームに尋ねました。 
 「ラーム。あなたなんで泣いてるんだい?」 ラームは泣きながら、「なぜ?なぜだって!ウスタード(Ustad:イスラム教徒の用語で師匠の意。 ヒンドゥー教徒の師匠は通常Pandit:パンディットと呼ぶ)はもう行ってしまった!これからいったい誰が私にタブラを教えてくれるのでしょうか?」 これを聞いて妻は笑いながら言いました。 
 「ラーム。あんた心配する必要ならないよ。あたしのお父さんもタブラ奏者だったんだけどね、 あたしがここに嫁に来る前にお父さんはあたしにパンジャーブ・ガラナのガットを教えてくれてたんだよ。ガットなら500くらいは教わったのよ。 だからウスタッドがウチに帰ってくるまではあたしが教えてあげるわよ。」 
 それからの4ヶ月間、ラームは彼女から500ものパンジャービー・ガットを教わりました。 その間にウスタッド・モードゥー・カーンも妻の実家のあるパンジャーブから帰ってきて、ラームへのタブラ指導を再開しました。 そのころのラームは毎日20時間はタブラの練習をしていたそうです。そしてそれから12年の間、モードゥーからタブラを習ったのでした。 

 ある年、ラクナウのナワーブ(太守)が死に、その後継者の即位記念パーティーが催されました。 そのパーティーでは大きな芸術祭も開催され、インド中から有名で優れた音楽家、舞踊家、声楽家がラクナウに呼び集められました。 彼らは7日間に渡る芸術祭の中で、かわるがわるその優れた芸を披露しました。 
 じわじわと名をあげていたラームももちろんその芸術祭に招聘され、タブラの演奏をしました。初日にとてもいい演奏ができたおかげで、 その後7日間毎日出演することができたので、ラームのタブラ奏者としての名前は一気に全インドに広がりました。 
 全インドから名うての音楽家が集められ、7日の間連日連夜続いたお祭りの翌日、ラクナウのナワーブの宮廷では朝から大変な混雑が起きていました。 というのも、お祭りに出演した芸術家達は、ナワーブから、誰がどんなご褒美をもらうのか互いに気になって仕方なかったのです。 ラームはナワーブより、真珠の首輪2つ、4頭のゾウ、それにたくさんの現金をもらいました。ギャランティーとは別にです。 
 さらに、翌日ラームは師のモードゥー・カーン・サーハブと一緒に、自分の故郷で暮らす為バナーラスに向けて出発するのですが、 その時もナワーブは彼らの護衛のためにと自分の兵隊をわざわざ派遣しました。ナワーブはラームの演奏をとても気に入っていたのでした。 

 ラームにはジャナキー・サハーイという名の兄弟がいました。彼はカタックのダンサーでしたが、バナーラスに帰った後のラームは彼に踊るのをやめさせました。 そして自分の弟子にしてしまい、タブラを叩かせました。 そのほかにもたくさんの弟子をとってタブラを教えました。「バナーラス・バージ」という本を書いたりもしましたが、残念ながらその本は現存していません。 

 ラームは時々、こんなことを言ってみたりもしました。 「これからの時代、私たちのスタイルのタブラはバナーラス・バージとしてかなり有名になると思う! ドゥルパド、キヤール、トゥムリー、タッパーなどの声楽、ヌリッティヤ(舞踏)、シタールその他の器楽の伴奏だけでなく、スワタントラ・ワーダン(タブラソロ)でもかなり有名になると思う。 きっとみんなバナーラス・バージでタブラを叩きたくなる!」。 

 その後、ラームはタブラを叩くきっかけとなった人を相次いで亡くします。叔父と父の二人です。それがもとでラームは半ばサードゥー(行者)のような暮らしを始めます。 贅沢は一切止めました。質素な小屋に一人で暮らしながらも自分の弟子達にはタブラを教え続けました。そのような浮世離れした生活の間、 兄弟ゴウリー・サハーイの息子バイロー・サハーイには6年間つきっきりでタブラを教えました。 ほかにもプラタープ・ミスラ、ベイジュー・ミスラ、バガト・マハラージ、ラグナンダン、ヤドゥナンダンなどがラームより教えを受け、 名プレーヤーであり後進へは良い師でもあったと伝えられています。 

 バナーラス・バージ・タブラの創始者、ラーム・サハーイ・ミスラは1826年頃、46歳でなくなったようです。 ラーム・サハーイはその才能と恐ろしいほどの練習量によって、とても限られた人にしか叩くことの出来ないコンポジションを演奏することが出来ました。 スィッドゥ・パラン、ガジ・パラン、シャンカル・パラン、サマー・パラン、などです。たとえばサマー・パラン、このパランをもし正確に叩くとタールのサムに来た時、 置いておいたナリヤル(ココナッツ)が勝手に爆発して粉々になるという大変恐ろしいパランでした。ガジ・パランを上手に叩けば狂ったゾウ(ガジ)を自由自在にコントロールすることが出来ました。 
 おわり (敬称略)