‘ハージー・ウスタード’ ヴィラーヤット・アリ ’Haji Ustad’ Vilayat Ali

1779頃?-1826頃?  (ファッルカーバード流派) 

 ファッルカーバード・ガラーナー(ファッルカーバード流派)タブラの創始者、ヴィラーヤト・アリーの名前は「ハージー・ウスタード・ヴィラーヤト・アリー」として知られています。 その「ハージー・ウスタード」の「ハージー」とはイスラム教徒がサウジアラビアにある聖地、メッカを巡礼(ハッジ)することからきています。 
 今日では「ハージー」の季節になるとインド全土の各都市の空港から巡礼者だけを運ぶチャーター機がメッカに向けて飛ぶようになり座っているだけで巡礼が出来るようになりましたが、 ヴィラーヤト・アリーの生きていた19世紀前半、インドから「ハージー」をするのは大変なことでした。 
 それでもとても信仰心の篤かった彼は7回も「ハージー」に行き、その都度こう願ったそうです。 

「私がタブラでガット(※コンポジションの一種)を叩けば、いつでも「光」がピカッ!と、なるようにしてください。お願いします」。 

 彼が7回目のハージーを終えた時には、彼がガットを叩くといつでもどこで叩いても、確実に「ピカッ!」と光るようになったそうです。 
 この言い伝えにはたいへん興味をそそられるのですが、ここでひとつの疑問が生じます。 
というのもイスラーム教にあっては、音楽や舞踊はできるだけ避けた方が良いことのひとつとして挙げられているからです 。 
 宗派によって差異はあるものの、イスラーム教は戒律をとても重要視する宗教のひとつで、「ハージー」も一日五回の礼拝や、 断食月におこなわれる断食とともにイスラーム教徒が行うべきことのひとつとして挙げられています。 逆に不浄の動物である豚の肉を食べること、アルコールを摂取すること、そして心を惑わすという理由から音楽等にうつつをぬかす事も避けるべきこと、 行ってはいけないこととされています。 

 後のラクナウ流派のカリーファー(宗家)・アービド・フセイン(1867~1936)もやはりとても敬虔なイスラーム教徒でした。 彼はイスラームの戒律をとても厳しく守っていたので、当然自分の職業である音楽を演奏することに疑問を感じてしまいます。 そして彼も「ハージー」を行うのですが、インドへ帰国した後、タブラを叩くのをぱったり止めてしまいました。鼻歌すら歌うことはなかったともいわれています。 数年の間イスラームの教えに従って音楽から全く遠ざかってしまったのです。 後にアービドはある理由から再びタブラを叩くようになるのですが、はたしてヴィラーヤトが本当に自分のタブラ演奏の技術の向上をアッラーに願ったのかどうか大きな疑問が残ります。 

 さてとにかく巡礼の旅を7回もしたヴィラーヤトは、いつの頃から「ハージー・ウスタード・ヴィラーヤト・アリー(巡礼を済ませた先生ヴィラーヤト・アリー)」 もしくは単に「ハージー・サーブ(巡礼さん)」と呼ばれるようになりました。 

 「ハージー・ウスタード・ヴィラーヤト・アリの生没年は明らかになっていませんが、1800年前後に現在ウッタル・プラデーシュ州のファッルカーバードで生まれとされています。 

 ハージーのタブラの師匠は、当時デリーよりラクナウに移り住みラクナウ流派の始祖となったミャーン・バクシュ(Myan Baksh)でした。 ミャーン・バクシュと兄弟のモードゥー・カーン(※「ラーム・サハーイ」参照)は、ともにデリーでデリー流派のタブラを修め二人ともラクナウに移るのですが、 彼らのダーダーグル(おじいさん先生;自分の師の師)はタブラ最古の流派とされるデリー流派のスィターブ・カーン(Sitab Khan)とされています。 

ミャーン、モードゥー両氏はもともと住んでいたデリーから、当時芸術に大変理解のあったラクナウのナワーブ(太守)の招きでラクナウに移住しました。 タブラ誕生以前に宮廷音楽の打楽器の主流だった両面太鼓「パカーワジ(ムリダンガム)」とは、まったく異なる新しい打楽器として生まれたタブラ(デリー流派)は、 モードゥー・カーンとミャーン・バクシュの両氏の世代になって、宮廷舞踊カッタクの伴奏に対応できる音量を持つ新しい演奏スタイルを生み、 そのスタイルはラクナウ流派と呼ばれるようになりました。 そしてその次の世代のハージー・ウスタードとラーム・サハーイは、ラクナウ流派をそれぞれ発展させ、 ファッルカーバード流派とバナーラス流派と呼ばれるさらに新しい演奏方法とコンポジションを作り出しました。 

 こうしてタブラの歴史のなかに名を残すことになったハージーですが、ラクナウの師の元に住み、 デリー流派のタブラ演奏法と同時に師ミヤーン・バクシュの興したラクナウ流派のタブラを教わります。 
 この頃共にラクナウで修行中だったバナーラスのラームとハージーにはかなり親しい親交があったらしく、 共に師より教わった一つのコンポジションを二人で変奏してお互いに聴かせあったこともあったようです。 現在でもそのいくつかはジョーラー(対になっている)としてファッルカーバード、バナーラス両流派のタブラ奏者によってまれに演奏されることがあります。 

 ラクナウに来てから数年の間、献身的な努力と師ミヤーン・バクシュの熱心な指導によってハージーは大変優れたタブラ演奏家となりその名前は広く知られるようになりました。 言い伝えでは、師匠のミヤーン・バクシュには自身の興したラクナウ流派タブラを伝承させるべき実子が当時ありませんでした。 その為、自分が師より受け継いだデリー流派の、または自身で考案したカーイダーなどのパターンを、ミャーン・バクシュは自分の実の娘たちに記憶させ後世に残そうとしました。 
 ハージーはこの娘の中のひとりと結婚しました。そしてこの結婚によってハージーが受け取る結婚持参金(インドでは新婦側が新郎側に贈る)として特別な秘儀を受けたとか、 娘が完全に記憶していた秘伝のタブラのボールを手にしたとか、さらにその娘は記憶していたタブラ演奏のノウハウを一度に全部ハージーに教えなかったために、 ハージーは一生彼女に頭があがらなかった、とも伝えられています。 

 なかなか面白いエピソードの多いハージーですが、タブラの腕前はかなり素晴らしかったようです。 そして演奏の技術だけでなく、師より伝えられたデリー、ラクナウ両流派のスタイルに独自の様式を融合させて、 新たにファッルカーバード・ガラナ(ファッルカーバード流派)を創出しました。 洗練されやわらかい音への需要から生まれたタブラ(デリー流派)から、 音量を増すためにパカーワジの奏法を取り入れたラクナウ流派の演奏スタイルを、 音量を多少減らすことになりながらも再度洗練されテクニカルなものに彼はしたのです。 

 ハージーはラクナウから出身地ファッルカーバードに戻り、そこでタブラの専門学校を設立しました。 実質的な経営と権力は、師の娘である妻がしっかり握っていましたがそこでかなりの数の弟子を取り、素晴らしい演奏家をたくさん育て上げました。 
ハージーの実子で後継者のフセイン・アリーはじめ、’チューリヤーワーレー’ イマーム・バクシュ(‘Chudiya Wale’Imam Baksh)、 チュンヌー・カーン(chunnu khan)、ミャーン・サラーリー(miyan salari)などが名演奏家としてだけでなく優秀な師としてファッルカーバード流派の興隆に大きく貢献しました。 

 余談ながらタブラ・ムクトゥ・ワーダン(タブラ・ソロ演奏)でのチャーレーとペーシュカルを現在演奏されている形に整えたのはこのミャーン・サラーリーであるといわれています。 いまでもいくつかのチャランは「サラーリー・キ・チャーレ―(サラーリーのチャラン)」と呼ばれファッルカーバードのプレーヤーのみならず、他流派のプレーヤーにも演奏されています。 
 さて興味深い伝説に包まれたハージーの一生ですが、没年についても残念ながらはっきりしたことは知られていません。 インド人の「何かを書いて記録を残す」ことをしない昔からの国民性を考えると、ハージーの一生が明らかになる可能性はとても低いとおもわれます。 

 
 おわり (敬称略)