バイロー・サハーイ Bhairav Sahay

1815?~1894(バナーラス流派) 

 バナーラス・バージ(バナーラス流派)の創始者ラーム・サハーイ はその晩年に遊行僧のような生活を送っていた期間、自分の兄弟、親族はじめおよそタブラの道を志す者に、 自身の考案した新しいスタイルのタブラを教え広めていました。 
 弟のジャヌキーにはそれまで続けていたカタック・ダンスを止めさせてタブラを仕込みました。 ゴウリー・サハーイもラームの兄弟の一人であり、彼もまたラームにタブラを教わっていましたが、バイロー・サハーイはそのゴウリーの息子でした。 バイローは幼いころから父ゴウリーにタブラを教わっていましたが、五歳になったある日、父ゴウリーはバイローを自分の師であり兄弟であるラーム・サハーイの家に連れて行き、 ラームの直弟子にしてもらいました。 
ラームはその場でバイローにタブラを叩かせ、演奏を聴きおわってから「この子はわしの最後の弟子になるだろう」と一言だけ言ったそうです。 

 バイローは小さいころから大変な怒りんぼうでした。子供ながらに血の気が多くすぐ腹をたて、物を壊したり、よその子供を殴って泣かせたりはしょっちゅうでした。 まさにバイロー神(バイラヴ神、バナーラスの門番であり守護神。酒と大麻が大好きな神様)そのままの子でした。 
 バイローは五歳のときにグル・ラーム・サハーイの弟子になり、その才能と師の優れた指導によってわずか6年間でおおよそのことを習得したそうです。 そしてもちろんバイローの練習に対する姿勢はゆるぎないものだったようです。 

 バナーラスの主なガートであるダサーシュワメード・ガートのそばのゴドリヤ交差点を北上すると、 過去にタワイフがあり音楽家達の活躍したダールマンディーの入り口のあるチョウク交差点があり、そのまま直進すると二チーバーグという地区になります。 
 そのニチーバーグにはバナーラスの守護神バイロー・ジーの化身の1つ「アース・バイロー神」の寺があります。 
まだ十歳にもならないうちにバイローさんは、この「アースバイロー寺」を毎日参拝すること、できるだけたくさんタブラを練習すること、 この二つだけを自分の人生の目的にし、実際バイローさんは死ぬまでその通りに過ごしたそうです。 
バイローは18歳のときにはすでに自分のスタイルを確立し、その演奏内容はそれまでのタブラ奏者が技術的に演奏するのがとても難しいものばかりでした。 
 そして21歳になったバイローはそれまでの豊富で継続的な練習によって獲得した技術で当時の偉大な音楽家達を戦慄させることになります。 それはネパール王室の宮廷で行われた音楽会でのことでした。 

 インド古典音楽(ラーグRaag、タールTaalに基づいて演奏される音楽)は当時でも現在のインドのみならず、北インドを中心に、バングラデッシュ、パーキスターン、 そしてネパールの宮廷でも大変盛んでした。ネパール王室のラーナー・ジャング・バハードゥル・スィンは自分の主催したある音楽会に、 それまでに幾度かわずかに名前だけは伝え聞いていたバイロー・サハーイを招聘しました。 
 その音楽会には全インド亜大陸から有名な音楽家達が招かれていましたが、そのなかでもサロード奏者ニヤーマトゥッラー・カーンの存在は大きなものでした。 宮廷内では音楽会ではどのタブラ奏者が、かの偉大なサローディヤー(サロード奏者)・ニヤーマトゥラー・カーンのサンガット(伴奏)をするのかいろいろな噂がながれました。 そんな中で音楽会の開かれる夜になりました。 
 まだ夜の早いうちに始まった、カッチェーリー(夜会)はインド亜大陸全土から、既に名声を勝ち得た名演奏家、名声楽家、名舞踊家のほかにも、 その夜なんとかいい演奏をしてこれまたインド各地から招待された各地のマハーラージャ、ナワーブ、そして貴族達に認められ 宮廷音楽家としての未来を切り開こうとする新進気鋭の若手演奏家も中にはいました。 音楽家の家に音楽家として生まれた以上は音楽で身を立てる以外に自分の未来は無い、そう意気込む者もいました。 そして若手タブラ演奏家にとってはすでに名をなした名演奏家の伴奏することは大きなチャンスでもありました。 
 名演奏家の演奏の時には聴衆の数も増え、それだけたくさんの人に自分の演奏を聴いてもらえるからです。 

 さて、そのような色々な意図が渦巻く中、バイロー・サハーイは幼少のころからの自分の人生の二つの目的「アースバイロー神を祈ること」 そして「出来るだけたくさんタブラを叩くこと」を決して忘れることはありませんでした。 
 いい演奏をしていい就職口を手に入れようなどという気持ちは彼の心の中にはまったくありませんでした。ただタブラを叩くことが出来ればそれで十分だったのです。 

 ヴァラナシのコートワーリー(門番、守護者)であり、あらゆる障害の駆逐者アース・バイロウ神は自分のバクト(信奉者)のタブラに対する純粋な姿勢に対して大きなご褒美をあたえます。 それはバイローにとってチャンスなどではありませんでした。それは演奏する前に既にバイロウ神によって予定され決定されたすばらしい演奏でした。 
 すでに名サロード奏者としての名声をほしいままにしていたニャーマトゥッラー・カーン・サーブはアーラープ(主奏者のみによって演奏される前奏部)で、 間違える方が難しいとさえ思われるほど理にかなった形で、ラーグの特徴を明確に表しました。 
 アーラープが終了した時点で聴衆はすでにそのラーグの表情をはっきりと理解することが出来ました。 カーンサーブはすぐさまスターイーを提示しガット(打楽器奏者との共演部)を開始します。 
 バイロー・サハーイはアーラープでカーンサーブによって注意深く表わされたラーグのミジャーズ(雰囲気、ムード)を少しも損ねることなく カーンサーブの演奏するスターイーにタールの表情を与えました。そしてまもなくニャーマトゥッラー・カーン・サーブは、 彼が仕事目当てでタブラを叩いているのではないことを心のそこから理解します。 
 カーンサーブは、数千年の歴史と複雑な理論体系をもつインド音楽の伝統と知識、その懊悩を知り尽くしたものだけが演奏しうる様な 複雑なチャンド、ライ、トール、ターンの数々をまるでバイローを試すかのように続けざまに弾きました。 
 それに対してバイローは元々複雑であった音の並びをさらに複雑に変化させてタブラで表現しました。 ほぼ無名の若手タブラ奏者によって沸き上がったほとんど喜びに近い驚きはカーンサーブだけが感じたものではありませんでした。 二人の音のもみ合いを目の当たりにした聴衆は「キャーバーテー」の「バー」すら忘れてしまいました。 

 演奏後ニャーマトゥッラーはバイロー・サハーイを指してこういいます。「このバイロー・サハーイという者はただのタブリヤー(タブラ奏者)などではない。 彼が何者であるかというと、それは預言者である。神はこの人の指に(未来を見ることができる)目を与えた。 だから私が即興で演奏したガット・トールの変奏すべてを単になぞるだけでなく、そこに彼自身のアイデアを加えて同時に演奏することが出来るのだ。」 

 その夜のカッチェリー(夜会)の主催者であるネパール王室のラーナー・ジャング・バハードゥル・スィンは彼ら二人の演奏と、 ニャーマトゥッラーカーンのバイローに対する惜しみない賛辞を聞き大変喜び、彼らにたくさんの褒賞をあたえました。 バイロー・サハーイにはさらにマハーラージャー自身が保有していたライフル銃一丁と剣が与えられました。 
彼はその夜、少しも望んでいなかったにもかかわらず、バナーラス・バージ(バナーラス流派タブラ)を代表するタブラ奏者になったのです。 

 バイロー・サハーイはある意味奇人ともいえる性質をもちながらも、その変わった性格と音楽に対する純粋な姿勢が、同時代の音楽家のみならず後の音楽家からも愛され続けました。 
 彼の育てた弟子のなかでは自身の子でもあり第一の弟子であったバルデーオ・サハーイ(Baldeo Sahay,1872~1927?)の名前が現在でも語り継がれています。 なぜならバルデーオ・ジーの時代から徐々にバナーラス・バージ全盛期が始まるからです。 

 バルデーオ・サハーイは生涯かなりの数のチーズ(レパートリー)を作曲したことでも知られています。 その中の多くのチーズは現在でもバナーラス・バージ(バナーラス流派タブラ)のタブラ奏者のみならず他流派の演奏家によっても頻繁に演奏されています。 
 バルデーオ・サハーイの弟子には、実の子である二人、バグワティ・サハーイ(Bhagwati Sahay,1896~1946)と、ナンヌー・ジーもしくはスールことドゥルガー・サハーイ(Durga`nannu`Sahay,1892 ~1926)、さらにはバナーラス・バージ・タブラの革命児カンテー・マハーラージ(カンテー・ババ、Kanthe Maharaj,1890~1969)、ビックー・マハーラージ(Bikku Maharaj)等がそうそうたる面々の名前があげられます。 
 彼らは既存のバナーラス流派タブラにそれぞれ独自の改良を加えバナーラス・バージ・タブラの新たな可能性を追求していきます。 
 そして彼らは同時に偉大な師でもあったためバナーラス流派タブラは驚くべきほどの多様性を生んでいくのです。  

 おわり (敬称略)